[カテゴリー:『問答の言語哲学』をめぐって]
いちろうさんの質問17は次です。
「質問17 p.234の同一律についての「Aは、Aですか?」「いいえ、Aは、Aではありません」の例は、冗長ではありませんか。
この例には「①Aは、②Aですか?」「いいえ、③Aは、④Aではありません」というように4つのAが出てきますが、問答により①と③、②と④の同一性は確保されても、①と②、③と④の同一性はどのように確保するのでしょうか。
「Aですか」「Aではありません」のような文を用いないと、原初的な同一律は確認できないように思えます。
(ブログ29に「p┣pは、pの意味を変えないのですが、それはpの意味を保存するからではなく、pの意味を作り出すからではないでしょうか。」とありましたが、「Aですか」の問いを受け入れ、「Aですか」の前提承認要求を受け入れるからこそ、そこで意味の作り出しがあり、「Aです」と答えられるのでは、ということだとも言えるかもしれません。)
または、「同一律に従っていますか。」「いいえ、従っていません」でもいいのかもしれませんが。」
p.234では、 「Aは、Aですか?」という問いに「いいえ、Aは、Aではありません」と答える時、この返答は、問答論的矛盾を引き起こすことを示そうとしました。いちろうさんの言うように、次のように表記すれば、より明解になるかもしれません。
「①Aは、②Aですか?」「いいえ、③Aは、④Aではありません」
この場合、問答が成立するには、①と③の同一性が成立しなければなりません。(いちろうさんが言うように、②と④の同一性も確保されているのかもしれません。)これを明示すると「①Aは、③Aです」となります。つまり、「AはAです」が成り立っています。したがって、この問答関係が成立していることと、「いいえ、AはAではありません」という答えの命題内容は矛盾(問答論的矛盾)します。これがここで私が言いたかったことです。
いちろうさんは、「問答により①と③、②と④の同一性は確保されても、①と②、③と④の同一性はどのように確保するのでしょうか」という疑念を持っておられるので、私が、「①Aは、③Aです」を「AはAです」として理解することにも疑念を持つるかもしれません。なぜなら、もしこの理解を認めれば、①と③、②と④、①と②、③と④の同一性を区別せず、すべて「AはAである」として理解することになるからです。
しかし、もし①と③、②と④、①と②、③と④の同一性を区別することにすれば、「A」の発話トークンをすべて区別することになります(そうするとここに何度も書いてきた「①A」もまた区別しなければなりません)。しかし、同一律を「AはAである」で表現するとき、そこでは「A」のタイプのことを考えており、トークンのことを考えているのではないだろうとおもいます。したがって、私は、「①Aは、③Aです」を「AはAです」として理解することができるとおもいます。タイプとトークンの区別は重要なのですが、もしここでそれを持ち出そうとすると、最初の問い「AはAですか」の設定そのものを変更する必要がありそうです。
いちろうさんの質問18は次です。
「質問18 p.235以降で取り上げられていた「根拠を持って語る義務」、「嘘をつくことの禁止」が三木さんからの質問でも問題になっていましたが、これはつまり日常では問題にならないが、普遍的な主張である限りは、これらのルールが適用される、という理解でよいのでしょうか。
もしそうだとすると、主張を重視し、そこに、常に嘘をついてはいけない、というような普遍的なルールを持ち込む(問答)推論は、嘘も方便を容認するような日常の言葉遣いとは乖離しているということなのでしょうか。
直感的に、僕は日常的には理由の空間に住んではいないような気がするのですが、(問答)推論は、そのような日常を取り扱うものではない、ということなのでようか。(もう少し理想化された言語活動みたいなものを想定しているということでしょうか。)」
日常の会話の中で、これらの規範を無視して話すことがありうることは認めますが、人は、大抵は、自分の発話や相手の発話の根拠を問題にしているし、嘘をつくことは悪いこととされていると考えているのではないでしょうか。もしこれらの規範がないとしたら、会話することはほとんど無意味になると思います。互いに嘘をついてもよい嘘つきゲームをしてみたらわかりますが、それはちっとも面白くなくて、続ける気がなくなると思います。
いちろうさんのご質問は、「「根拠を持って語る義務」、「嘘をつくことの禁止」について、「これは、日常では問題にならないが、普遍的な主張である限りは、これらのルールが適用される、という理解でよいのでしょうか」ということだったのですが、前に(70回に)三木さんの質問に答えたときの一部を繰り返します。
(引用はじまり)「この三木さんの質問を次のように理解しました。「事実としては人間は根拠のない主張や嘘もおこなうし、それらをおこなうと認める発言もしているはずだ。」このような事例を「不純物」として「取り除ける前提はどこかに置かれていて、それによって事実と規範のギャップが埋められている」が、その「前提」とは何か、ということです。
もしこのような問題設定を受け入れるとすれば、次のように答えたいとおもいます。ここでいう「不純物」が、「人は嘘をついてもいい」のような発言であるとするとき、それを取り除ける前提とは、<その発話が相関質問に対する答えとして成立する>ということです。そして、この前提を認める時、「人は嘘をついてもいい」という返答は問答論的矛盾を引き起こすために取り除かれることになります。」(引用おわり)
「常に嘘をついてはいけない、というような普遍的なルールを持ち込む(問答)推論は、嘘も方便を容認するような日常の言葉遣いとは乖離しているということなのでしょうか」というご質問に対しては、次のように応えたいです。
「嘘も方便だ」と考えて、嘘を容認する場合があるとしても、その場合にも、「嘘をつくべからず」という規範を認めているのではないでしょうか。様々な事情・理由で、その規範の適用を制限しようとしているだけであって、「嘘をつくべからず」という規範は、その場合も生きている、妥当しているとおもいます。
規範を規範として見ているということと、規範に従がうということは、別のことであって、常に一致するとは限りません。
「直観的に、僕は日常的には理由の空間に住んで」いるような気がしますので、「理由の空間」の理解の仕方が違うのかもしれませんね。
以上で、いちろうさんからの沢山の質問に一応答えおわりました。どの質問も、私の説明不足や考え不足をついた難問で、答えを考えながら、沢山の発見がありました。ありがとうございました。
いちろうさんには、沢山の誤植のご指摘もいただきましたので、もし修正の機会に恵まれたならば、活かさせていただきたいと思います。ありがとうございました。